街灯の許の『花火思想』

木村文洋(映画監督)

 

 『花火思想』という無防備なほどに無骨で、宙に居心地なくぼんやり浮いたような映画のタイトルをつぶやくとき私は―コンビ二の片隅でひっそり売られ、それが街のどこならば光をあげているのか、ほとんど見かけることもなくなった小さな花火そのもののことを思い出す。CDをつくる予算もない、生活の限界、という言葉を遺して解散していった本物のロックバンドや、亡霊のようにネットでデータが無間増殖する、いまの音楽について思い出す。

 映画をいま撮る理由、上映する理由、それを残す理由。産業としての成り立ちは崩れ、映写技師は映画館から消え、あらゆる「意志」が清掃される。そんなことを口にすること自体が―私達の足を、止まることのない泥濘へと誘う。撮らなければならない。まず、存在しなければならない。しかしこのなかで、なにに向かって、なにに肯くことを信じて、映画をつくるのか?

 大木萠ら新星メンバーが2014年明けに日本映画に打って出た『花火思想』とは、紛れもなく何にも一切寄る辺のない、いま真に孤独な映画だった。この俳優を起用する、この原作を扱う、このいまの世情・風潮に言及する―そのあらゆるものとも、どこか決定的にこの映画は違い、そして孤独だ。この孤独さとは、なにか。映画においてなにかが消し飛び続けているのは現前の事実かもしれないがそのなかでも誰かが、あらゆる映画を、撮るそして大木萠らは、自らすべてを消し飛ばすことから、この映画を紡いでいったように思う。

 音が鳴らない。

 みる悪夢には、思い出す顔がない。

 すべてを奪ってしまった親友の最後の声も、聴こえない。

 この映画でただ聴こえた唄とは、路上ミュージシャンの唄と、岡林信康の荘厳華麗な音楽の神々の唄。ならばお前が唄ってみせろ、と主人公の胸倉をつかみたくなるが、彼にはギターをもう一度持つことはなににでも許されても、ギターをもう一度持てる理由がどうしても分からない。

 守れなかったもの、消えたもの、それがほんのかすかに自分の意思や力量を超えたものであったとしても、彼にはそれを再生させる方法が分からない自らの限りにおいて一輪の花さえ再生させればよいものを、違うのか。

 止まることのない泥濘の連続の時間、主人公の恋人と、たったひとり残った主人公の友人とが、もたれあって倒れこむ。コンビ二で部下に当たり散らす上司、ビルと家庭とがすぐそこにありながら路上生活を送る男、欲しいものだけを抉り取ろうとするヴォーカルも、それすら拒絶を完遂できなかった主人公も、悪いが全員、薄っぺらいクズなのだろう。

 1948年に太宰治が『人間失格』で(手前勝手に)書いた妻の、仕事相手との過失の目撃―、しかしいま読めばあんなことは、こんな薄っぺらいクズがあるいは、昔から日常的であるなかで、なんでもない、とさえ思えるときがある。ただ、太宰は壇一雄に妻の過失を告白した際、こう言ったらしい。相手が、親友の君ならば決闘が成り立つが、あんなやつでは決闘も成り立たない、と。そこが地獄だ、と。

 なぜだか私はここまで考えていて、『花火思想』の主人公・優介の不幸とは、最後の最後で美しいものを確信できえなかったことではないかと思った。

優介には最後、決闘の権利さえ与えられたのだ。恋人、友人を美しいものと思っていれば。

 しかし、コンビ二でなんとなくある花火、CDにならない音楽、ネットでダウンロードする小説、映画。そのなかでまごうことなき本物とは、存在しているのかもしれない。しかし優介には美しくなりえたものとは、結実するまえに消えた、もう聴こえない親友の声のみだったのだろう。

 思えば、こんなシーンがいるのかよと初見思ってさえいながら、あの片脚が折れた友人のべーシストと主人公の恋人のみが、この映画で気丈に倫理を保っているふたりだった。誰しも薄っぺらい足許の地獄を直視するのは怖い、そのなかでやることといえば―自分より弱いものの屍体を集めて足を乗せるか、あるいは懐柔することのみだった。

 片脚が折れても気丈に立っていたあの友人と、恋人が共倒れになることを知りさえなく、優介は決闘すべき相手を承認できないまま―弱いものが、さらに弱いものを叩く雪原へ向かわざるを得なかったのだろう。そこに、映画『花火思想』の圧倒的な哀しさと虚しさとがある。

 

 映画は最後唐突にぽつんと浮かぶ、街灯の蛍光灯の光の許で終わる。

 あまりの寒々しさ、救いのなさ、寂しさ、あるいはやはり無防備さに、私はやはりこの映画のつくり手は非凡であり、同時に異常でもあると思った。それは―いま、私たちの望むものは、ではなく、私たちはいま何も望めない―という手を、あの蛍光灯の許に見たような気がしたのだ。

 

 映画をつくることに、いまつくり手は果たして容易に許されるのか? 

 映画『花火思想』は、この問いに徹底的に真摯であったと思う。

 だからこそ『花火思想』は上映されつづけられる映画であると思うし、

 本作の脚本家であり監督を降板した阿佐谷隆輔、監督・大木萠は次作をつくり、上映しなければならないと思う。

 

 

 

きむら・ぶんよう 

1979年青森県弘前市生まれ。

2008年、自主制作『へばの』が第32回カイロ国際映画祭デジタル・コンペ部門シルバー・アワード受賞。2作目の『愛のゆくえ(仮)』は第25回東京国際映画祭「ある視点部門」で上映される。現在3作目となる『息衝く』を制作中。